新しい年の初めに、敬愛する師、サティシュ・クマールの言葉を掲げたい。ぼくが今翻訳中の『エレガント・シンプリシティ よく生きるアート』から。冬を、暗い時期を、危機を、そしてコロナの時代を生きるみなさんに、この言葉が届くとうれしい。みなさんにとってよい年となりますように。 辻信一
相反するものどうしのダンス サティシュ・クマール
秋の終わりと冬の初めは、暗い季節への敷居をまたぐようなおもしろい時間だ。私たちはこの冬という季節に、大きく開いた心で向かっていくべきだろう。暗さを歓迎するのだ。それは冬眠の時。休息と再生の時。長い夜を迎えいれる。火のそばに座り、物語を読み、ともに歌い、踊る。こうしたことをするのに、暗い季節はおあつらえ向き。闇を恐れてはいけない。日が長いときの明るい晩に、私たちは散歩したり、庭仕事をしたりして楽しむが、夜が長くて暗い季節には、想像力のくにへと入っていく。詩を書いたり、『戦争と平和』を読んだり。光はたしかにありがたい。でも暗さも負けずにありがたい。ふつう、よいことを語るのには「明」という言葉を使うが、「暗」という言葉の価値にも気づくべきだろう。それが、正反対のものをつなぐアートというものだ。
暗くなると、幽霊や精霊などが怖いからと、林のなかに入るのを嫌がる人がいる。でも何も恐れることはない。死ねばみな幽霊になるのだし、自然界の霊魂に仲間入りするのだから。怖がりさえしなければ、幽霊とだって友だちになれる。霊魂も生きた人間の魂も亡霊も、すべて同じエネルギーの場{フィールド}のなかにある。幽霊はだれにでも働きかけるわけではない。もしあなたが幽霊をよび寄せる人なら、何か特別なオーラをあなたがもっているからかもしれない!
幽霊を経験するかどうかにかかわらず、暗さは私たちのだれにとっても人生の一部だ。ならば、暗さを友としなければならない。ほんとうの回復が可能なのは暗さの中だけ。暗さは再生の時を与えてくれる。長い時間、昼の明るさのもとで仕事をした後、私は暗さを求める。灯りを消して、部屋を暗くする。それでも道のほうから光が入ってくるなら、カーテンを閉めてもっと暗くする。窓を閉め、雨戸を閉め、ドアを閉めると、私はホッとする。最後に閉めるのは自分のまぶた。それも閉じたとき、眠りに落ちる。
眠っているあいだに、私たちのからだは昼間失ったエネルギーを回復していく。明るさのもとでエネルギーを消費しながら、畑仕事や料理や勉強をして、歩き、働き、遊ぶ。一日に、私たちは多くのエネルギーを使う。そして、そのエネルギーをとり戻す必要がある。それができるのは暗さのなかでだけ。
魂の回復と再生も暗さのなかで行われる。神秘家たちはそれを「魂の闇夜」と呼んでいる。私たちが感情的、心理的な困難を抱えているときや、スピリチュアルな危機にあるときのことを暗い夜に喩えているわけだ。この暗い状況を、静かなこころで抱擁することができる人は、以前より強くなって、そこから出てくる。こうした「闇夜」のうちにあって、私たちは想像力、信念の力、瞑想力を働かせる。すべての危機は好機でもある。疑念と失望に満ちた危機をつうじて、より深い自分へとつながり直すのである。
ほとんどの人が個人的、内面的な危機を経験しているか、これから経験するだろう。危機を好機へと変容させるための第一歩は、「私は危機にある」と認めることだ。こころが置かれている状況への気づきが、治癒の始まりを告げる。次の一歩は、自分に静かな時間と空間を与えてあげ、問題を引き起こした原因や状況について瞑想すること。
「瞑想{メディテーション}」という言葉は、「医療{メディスン}」という言葉と同様に、「気にかける」という意味のラテン語「ミドゥーレ」に由来する。私たちが身体を気にかける必要があるとき、私たちは瞑想する。「気にかける」ということが、自分自身についての、そして自分をめぐる危機の原因についての、気づきを手にするための一歩となる。そして次にやってくるのが、内面的な危機の根っこにある自我、野心、支配欲、物欲、知識欲、権力欲、名前や地位への欲望、金銭欲などについての自覚だ。
地球大の危機の原因も似たようなもの。人類は自然を統御できると思いこむようになった。海や森を、川や動物を支配できるのだと。たしかに、月面着陸もできるし、核兵器を製造することもできる。しかし、深い瞑想のうちで、私たちはそれほど強くないということを悟る。竜巻ほど、ハリケーンほど強いわけではない、ということを。大雨が降るだけで、私たちは身のほどを知らされる。謙虚に、自然の力への畏怖を感じなければならない。環境危機に対処するには、自然界との調和をとり戻す必要がある。私たちは地球の管理者でも、支配者でもない。謙譲のこころを今こそ働かせるときだ。
外なる世界の津波や嵐を経験するように、私たちはときに内面的な津波や嵐にも遭遇する。これらの困難をとおして、私たちは自分自身への、そして地球への慈愛を育てるべきだ。“臭いものに蓋”をしてすませるわけにはいかない。どんな危機であっても、そこで求められているのは「気にかける」こと。感謝と祈りをこめてその危機に向きあうことだ。外なるものか内なるものかに関わらず、すべての危機は「分断{ディスコネクション}」からやってくる。とすれば、危機の解決は「再結合{リコネクション}」だということになる。瞑想において私たちは、自然との、人々との、そして内なる魂との、根源的で揺るぎのない調和とつながりへと、意識の焦点を合わせる。
インドでは、人と人が出会うとき、それぞれが自分の手を合わせて「ナマステ」と言う。この言葉は「あなたに敬意を表す」ことを意味する。手のひらを合わせるのは調和を表わしている。二つに分かれているものを一つにする。二つの手が一体となることで、あなたと私が一つになる。あい反するものが一緒になる。ひとつのものの二元性は、同時に、二つのものの一体性だ。あい反するようにみえるものは、実は、互いに補完しあっている。上があるから下がある。男性性と女性性がそうであるように、暗さと明るさ、否定性と肯定性も、互いを補い、引きたてあう。反対のものどうしが一緒になって、欠けていない丸ごとをつくる。もしも一年がすべて日差しの強い夏ばかりだったら、おもしろくない。暗い冬があってこそ、バランスがとれる。それが自然の美しいデザインというものだ。季節はどれもいい。それらが一緒になって、よい全体をつくるのだから。
健康は大切だ。でも、病気にも意味がある。生きているからだであればこそ、頭痛がある。死体には頭痛はない。病気のときは眠り、休み、スローダウンするよい機会だ。だれかが病気になることで、家族が集まって病人を看病し、世話することができるし、お互いどうし思いやる機会にもなる。もし、まったく病気しないとしたらどうだろう。私たちはだれをも必要とせず、だれもが人を助け、思いやる機会を失ってしまう。病は人生の暗い期間。でもそれは、からだが横になってみずからを癒やすときなのだ。
私たちは二つの風景のあいだにある。物質的な自然世界の風景と、物質を越えた精神世界の風景と。私たちは木々、河川、山々などに囲まれ、嵐、洪水、地震などに耐えながら生きている。同じように、意識、感情、感覚などからなるこころの世界を生きて、怒りや恐れ、疑念や失望といった危機を経験する。美しい自然をもつ外なる風景のなかに生きているように、内なる愛の風景のなかにも生きる。私たちは不確かさと確かさの両方を受け入れる必要がある。疑念と信念、暗さと明るさ、混沌と明瞭、粗さと滑らかさ、痛みと快楽、得ることと失うこと、成功と失敗。すべてを受けいれ、広くて静かなこころを養う。そうすれば、人生という大海を悠然と漕ぎすすめることができるだろう。
こうしたダンスのような生のありさまを、陰と陽の太極図がシンボリックに示している。半分は黒で、半分は白。そして黒のうちに白い点があり、白のなかに黒い点がある。これこそ何も欠けることのない全体の象徴だ。完全な闇はなく、完全な光もない。だから、明るさのなかでも私たちは暗さを覚えているし、暗さのなかでも明るさを忘れない。インドの伝統には、半分が男性の女神シヴァや、半分が女性の男神シャクティの聖なる図像があり、それぞれ、陰陽の一体化を体現している。すべての男性に女性性があり、すべての女性に男性性がある。男性原理と女性原理は一体に働く。一緒にダンスをしている、と言ってもいい。暗さと明るさ、内と外、男性と女性、物質と精神が踊っているのだ。それは均衡を表現する。宇宙は、このあい反するものどうしのダンスのなかにある。
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