すばらしい記事に出会ったので紹介しよう。(「『科学的介護』の落とし穴」(2023年2月7日朝日新聞) インタビューに答えるのは村瀬孝生。福岡市で特養「よりあいの森」と二つの「宅老所」の統括所長を務め、『シンクロと自由』などの著書、そして映画やテレビへの出演で知られる。
まずタイトルにある「科学的介護」についてだ。最新テクノロジーを駆使して、現場のデータを集めて分析、予防や自立に効果があるサービスを普及させる狙いだという。それはまた同時に、「より少ない人手でも回る現場」を実現することで、効率性や生産性を上げることを目指す。こうした「科学的介護」に向けた動きが本格化している、と記事は伝える。
さて、それで果たして介護の質は向上するのか? これに対して、村瀬孝生は懐疑的だ。
村瀬は言う。
「科学が必要な場合もあるでしょう。でも、データやエビデンス重視のロジックが浸透すると、『見たいもの』しか見ない現場になる。それをおそれます」
「たとえば、膀胱(ぼうこう)内の尿量を測る機器があります。それをお年寄りに装着し、尿がたまったとセンサーが知らせてきたタイミングでトイレへ誘導できれば、オムツを使わないで済むようになるかもしれません」
「でも、お年寄りは、尿がたまっていなくてもトイレに行きたがることがよくあります。もし正確に尿量を感知できるセンサーが反応しなければ、そのお年寄りをトイレに連れて行くでしょうか」
聞き手は、こう問いかける。
「尿は出ないのに、トイレに連れて行く。そんな無駄な労力は省けば現場は楽になり、生産性も上がるのでは」と。
村瀬は答える。
「そうでしょうか。僕らの現場では、『おしっこ』という声を聞いたなら、それにつきあい、なぜ本人の実感がそうなのか考える。その営みが端折られ、『生産性を上げるために』と介護職員が尿量しか見なくなると、老体が発するサインを感受する力が育たない」
そして村瀬はこうつけ加える。
「生活は偶然性やいいかげんなものに満ちていて、データやエビデンスで裏付けられた正しさがベースにあるのではない。制度が定める目的や価値、意味が先行する介護は、生活から乖離すると思うのです」
まず外から目的が設定され、それに合わせて現場の介護のあり方が決められる。これは会社や工場のような企業の場合と同じで、現場の活動は目的に仕えなければならないのだ。生産性を上げるという目的から見て、それに奉仕しない活動はムダな労力、つまり、“ムダ活”なのだ。
効率性はともかく、生産性という言葉が介護の世界で使われていること自体がぼくにはショックだった。経済のマインドセットが、すでにぼくたちの暮らす世界の隅々にまで浸透してしまったことに、今さらながら驚くのだ。
村瀬は介護の現場での実践を通じて、「ケア」の思想を発信してきた人だ。「ケア」という言葉は日本ではいまだに、介護など福祉の世界に限定されて使われている。しかし、英語のCAREとは、「介護」という活動をはるかに超えて、「世話をする」や「愛情をもつ」から、「気にかける」や「気にかかる」まで、幅広く、そして深い意味を担う言葉だ。
マザー・テレサはかつて、「愛」の反対語は「憎しみ」ではなく、「無関心」だ、と言っていたそうだ。無関心とは、つまり、NOT CARE、つまり、「気にしない」「気にかからない」ということ。それはつながりそのものの一方的な切断を意味する。その意味では、怒りや憎しみよりも、冷酷でありうる。
科学は「知る」ことを最も重視する。しかし、と村瀬は言う。
「ケアで重要なのは『知る』ことよりも『受け止める』こと」だと。
「『これが嫌だ』というお年寄りの実感を、意味がわからなくても受け止めて、『かわりにこうしよう』という。それも拒絶されたら、また別のやり方を考える。このやりとりを繰り返して、信頼関係が積み上がる」
村瀬はこうも言う。
「相手のサインを受け取り、介護の質向上につなげる。無駄に見えることにも、気づいていないだけで大切なことが潜んでいる。介護する側の目的を遂行するために集められたデータで効率が上がるほど、唯一無二の人生を生きた老体は単純ではありません」
「科学的に裏付けのある標準化された介護」によっても、介護の質の向上が望めるのでは、と問う聞き手に対して、村瀬はこう答える。
「現場は寛容さを失うのではないでしょうか。標準化されたサービスを計画通りに提供したかどうかだけに重きを置いて評価されると、現場は追い詰められる。評価の矢面に立つ管理者は、計画の遂行を現場に求める。役割を与えられた個々の職員は、まじめであるほど目的達成のために鬼になる」
そしてこうつけ加える。
「目的が先立つ介護は一方的な暴力をはらみやすい。それが組織化されるとなおさらです」
目的の先行、組織化、そして制度化が怒りや暴力を育むのはなぜか。村瀬によれば、現代社会の介護制度は「成果主義と懲罰主義の組み合わせ」でできている。「制度設計に込められた国の目的に沿って、プラン通りにケアが行われたか否かで報酬が加算、できなければ減算され」る、と。
目的によって、「今・ここ」の生が従属させられ続けると、介護される側はもちろん、介護する側も、身体と心に傷を負うことになる。
「そうした事態を避けるなら、今の生活を計画で縛るのではなく、今ここで必要なことに対応するため計画を手放すことができる現場の裁量が大切になります」
村瀬は続ける。
「一方で経済社会は、将来の目標を達成するために逆算し、いつ何をすべきか計画することで成り立っています。・・・将来のため今を犠牲にすることをいとわない。今ここの対応から出発するケアとは、成り立つロジックが正反対なんです」
つまり、経済とケアでは、ベクトルの向きが反対なのだ。となると、経済とケアのどちらをとるのか、という性急な二者択一に陥る人が、この社会には少なくない。しかし、それが行きつくところは、全体の利益のためには、一部の人間を犠牲にしても仕方ないという考えだろう。そして、その犠牲者として選ばれるのは、おそらく、「生産性がない」、「役に立たない」人々だ。優生主義を声高に主張しないまでも、犠牲になる人には気の毒だが、「社会を維持し、経済を回すためには仕方がない」と考える人は、ぼくたちが呑気に考えているよりはずっと多いのではないか。いやもしかしたら、優生思想というイデオロギーに反対する自分自身のうちにさえ、そういう思いがそっと潜んでいないとは限らない。
村瀬はこう懸念している。
「人間の能力の限界を文明の利器で補完し拡張し続けることで、本当に幸せが得られたのか。立ち止まって考える時ではないでしょうか。人間の不完全さや弱さを排除せず、許容する力が失われていると思います」
誰もが、歳をとり、誰もが病気になり、多かれ少なかれ体の不自由を抱える。弱者とは他人のことではない。とすれば、その弱者を社会に不要なムダとして切り捨てることで、しあわせを得られるはずがない。その社会が活力あふれる社会であるはずはない。村瀬は言う。
「足手まといな者のリストの1番目にいる人を犠牲にすれば、2番目の人が繰り上がって次の犠牲となります。それを繰り返すだけの社会は、ほどなく弱体化する。日本社会はその状態にあると思います。それが私たちの望む経済でしょうか」
若者の数が大きく減り高齢者の数がピークになる2040年代に後期高齢者になるという村瀬自身、「どんな老いが待っているか不安で息苦しい」という。この不安や息苦しさが、今すでに、社会全体を覆っているのではないか、とぼくには思える。それは、自分自身がいつ、ムダ存在として社会に見捨てられるか、という不安であり、恐れだ。
その苦しみは、「未来への投資」という考えにある、と村瀬は考える。未来の目的や目標を達成する計画のために、今を差し出す。その達成につながらない今は虚しく、ムダであるという考えがぼくたちを不幸にする。「それよりも」と村瀬は言うのだ、「今ここの幸せをつかみとれたら、どれだけ楽になるか」と。「今を謳歌できる人生や社会に作り直せるかどうか」が、ぼくたちみんなに問われているのだと。
誰もが着実に老いて、やがて死んでゆく。致死率100%。どう老いればいいのかという問いに、村瀬はこう答えてインタビューを締めくくる。
「年をとれば老眼になるとか、足腰が弱くなるとか機能が衰える。たとえ医療や技術で補完してもやがて限界を迎えます。・・・自分の体をねぎらいながら、その変容に応じて老いを堪能できる生活に変えていく。そして生身の限界を踏まえ、合意を積み重ねる共同体になっていく。それが持続可能な社会のありようではないでしょうか」
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