キルタンという祈りの音楽家である堀田義樹さんを招いての、初めての「オンラインカフェ&バーゆっくり堂」の直後、このイベントの企画にも関わってくれた参加者からメールをいただいた。
それがとても素敵な話で、多分それにインスパイアされたのだろう。急に話したくなって、早速、そのメールへの返信を書いた。その内容をここに紹介したい、と思う。
辻信一
ぼくが若い時に出会って大きな影響を受けた本に「Number Our Days」がある。著者は文化人類学者のバーバラ・マイヤーホフ、カリフォルニアにあるユダヤ系老人ホームについての本だ。本のタイトルは旧約聖書の詩篇に出てくる詩(お祈り)の中に出てくる表現で、「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」という一節から来ている。
実は、日本で出版されたぼくの本としては第1作である『ヒア・アンド・ゼア』の中でも、その詩句をその前の数行とともに引用してるのだ。こんなふうに。
「人は息にひとしく、
その日は過ぎゆく影にひとしいのです。
あしたもえでて、栄えるが、
夕べにはしおれて枯れるのです。」
その後に「われらにおのが日を数え・・・」が続く。
最近、びっくりした、というか、うれしかったのは、イタリアの若い作家パオロ・ジョルダーノが『コロナの時代の僕ら』という本の中で、同じ一節を引用していたこと。
もちろん、今でもぼくには大切な言葉だから、時々思い出しては噛みしめるのだが、人が引用しているのに出会うことは滅多にない。しかも彼がこれに注目したのが、今度のコロナ危機の中、しかも2月末から3月はじめの、イタリアが最悪の状態にあって、みんなの心が沈んでいた時期だった、というのだ。
感激したぼくは、今度の夏至のキャンドルナイトへのナマケモノ倶楽部からの呼びかけ文の中に、その詩句とともにジョルダーノの言葉を引用した。
ジョルダーノはこう言っていた。「苦痛な休憩時間としか思えないこんな日々も含めて、僕らは人生のすべての日々を価値あるものにする数え方を学ぶべきなのではないだろうか」と。
「苦痛な休憩時間」という表現だが、ロックダウンや非常事態宣言で、急にドサリとたくさんの暇な時間をもらって、健康や生活や将来についての不安を抱えながら、どうやって押し付けられたこの宙ぶらりん状態に耐えたらいいのか。そういう、世界中の、特に彼を含む若い世代の人々の心情を、それはよく表している。
急に時間をたくさんもらったんだから、喜んでもよさそうなのに、なぜ苦痛なんだろう、とジョルダーノは考えたわけだ。実はこれと同じようなことをぼくもずっと考えてきたんだ、とぼくはこれを読んだ時に思った。そして、それを考える時のぼくにとってのキーワードが「スロー」だったんだ、と。
では、なぜ時間が苦痛なのかというと、それはその人にとって、今まで、時間がいつも未来への投資と見なされていたからだ。つまり、「今」や「今日」という時間は未来のための手段に成り下がっていた。時間はただ、「今、ここ」で享受されるためにではなく、いつも何か他のものやことを手に入れるための道具としてのみ存在する。
これって、考えてみれば、かなりクレイジーなことだ。でも現実世界では、それが当然のことになってしまっていた。気がつけば、自分にとって時間はよそよそしいものになっていたわけだ。自分から時間が、あるいは、時間から自分が疎外されている。
そこに、コロナ危機がやってきて、時間がいきなりどさっと自分の元に帰ってくる。言わば、納品したものが、急に注文がキャンセルされて返品されてきたようなもの。自分のうちに積み上がった返品の山としての時間を前に、戸惑い、うんざりしている。それがジョルダーノの言う、「苦痛な休憩時間」なんだと思う。
本来は自分のものであるはずの時間を、苦痛としか感じられない、という悲喜劇的な状況を超えること。それは何も、コロナ危機の中だけでなく、普段からとても重要な課題だったはずだ。その課題を、ぼくたちは「スローライフ」と呼んできたわけだ。
人生の中で、紛いなりにも「自分のもの」と言えるのは時間くらいのものだ、とある人が言っていた。確かに、「自分のもの」という言葉でぼくたちが思いうかべる「所有物」について、それが確実に「自分のもの」であることを証明することは難しい。そもそも、「所有」とは何か、という問いに、誰が確信をもって答えられるだろう。それはたかだか「経済」という物語の中だけで通用する、うちうちの決めごとみたいなものではないか。
結局、人生の終わりに「これは私のものだ」と確実に言えるものなど何もありはしないーー多分、自分が生きてきた「今、ここ」の集積としての時間、以外には・・・。「所有」というような虚しい概念を軸として一回だけの人生を生き、そのために肝心の「今、ここ」を犠牲にしているとすれば、悲しいことだ。
逆に、「スロー」とは、時間を再びこちらへと受け入れ、迎え入れ、抱きしめる、という覚悟、心構え、態度のこと。また、そういう状態へと自分を導くためのお祈りのようなものだ。「Number Our Days 自分の日を数えるように生きられますように」という、あの祈りの言葉も、未来も過去もなく「今、ここ」だけが唯一の現実だという仏教の教えも、同じ心構えを表現しているんだと思う。
堀田義樹さんのキルタンの「ローカ・サマスタ・スキノ・ババントゥ」も、「私」や「私のもの」への執着から自由になって、「今、ここ」へと立ち戻るための祈りだろう。
ティク・ナット・ハン師とプラムヴィレッジの瞑想には、よく終わりの方に、「I dwell in the present moment. I know it is a wonderful moment」というのがあって、息を吸いながら、「私は今この瞬間に棲まう」、息を吐きながら、「私は知っている、それが素晴らしき瞬間であることを」と心のうちに唱える。これが、最近、パンデミックの新しい日常にあって、本当に腑に落ちる、というか、身に染みるのだ。
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