石牟礼道子さんの死後、休刊になっていた「魂うつれ」(本願の会刊)が復活し、うれしい再刊号が届いた。特集のテーマは「いま、環境をどうとらえるかー水俣から発想する」。さらにうれしかったのは、緒方正人の長いインタビューが載っていることだ。
このインタビューが行われたのは3月20日。聞き手である下田健太郎は、「編集後記に変えて」の中で、今号の編集作業が、ちょうど新型コロナ・ウィルス感染の時期と重なっていたことに触れ、特集の基調となる記事として緒方にインタビューをお願いした、と述べている。
巻頭の「『魂うつれ』の再刊について」という文章の中で、本願の会事務局長の金刺潤平は言う。コロナウィルス禍は、「自分たちが近代化によって作り上げてきた社会が如何に脆弱かを物語っているかのようだ」と。また、それを受けて、巻末で下田は、「人類が近代化の過程でつくりあげてきた社会のありようやその意義が改めて問い直されている」と述べている。
「コロナの先」を展望するために、これからも「終わりなき水俣」から発せられる緒方正人の言葉を手がかりに思索を深めたい、とぼくは願っている。
以下、記念すべき「魂うつれ」再刊号の緒方正人の言葉をぼくなりに自由に抜粋し、わかりにくいと思われる箇所には勝手に加筆させてもらった。長年彼へのインタビューを重ね、それを一冊の本、『常世の舟を漕ぎて』(増補熟成版)として、このインタビューが行われたのとちょうど同じ頃に出版させていただいたご縁に免じて、この勝手を許していただきたい。 (辻 信一)
<願いをかけられているのは私たち>
俺は最近「生命環境」と言う言葉を使ってるの。それはいわゆる水質汚染や空気の汚染、温暖化という自然環境の問題だけではなくて、例えば赤ちゃんや子どもが家庭の中で虐待されたり、あるいは老人の問題だとか、人間以外の他の生きものも含めた、あらゆる生命の危機という意味で。
いろいろな言葉がね、バラバラに使われてきたと思うとよ。それぞれに業界があって。ところがもう、今のコロナウィルスの状況を見れば、全部が産業経済に直結していることがすぐわかる。生命環境の危機がもうすべてを、市場経済すらも崩壊させようとしている。その意味でコロナウィルスの現状は示唆的だと思う。単独で教育問題すらも語れない。生命環境が危機的な状況では、学校も休まざるを得ないし、そうすると親たちが仕事にもいけなくなって、子供をどうするか、というような話がもう毎日、毎日、問題になってるでしょ? それは当然、物の流通から産業経済、金融問題にまで派生していくので、全部が直結した問題になっている。・・・分けられなくなっている。だから俺は、そういう意味を込めて「生命環境」ってつけたの。人間だけじゃなくてあらゆる生命・・・。
「環境を守る」とかね、偽善臭いと思うのよ。ところが今では、自然界の方が人間を心配してきたんじゃないかなぁと思う。「このままいくと危ないよ」という信号をずいぶん送ってきたのに、何十年も危機の進行を知らせてきたのに、いつまでたっても人間が気がつかないから。そういう意味では、人間が環境を心配してきたというよりは、自然の方が人間や生命の育成を、生命界の行く末を心配してきたんじゃないか。・・・我々が亡くなった人たちや自然界に願いをかけているというよりは、生きている私たちが実は願いをかけられているんだと。私たちの方が、目覚めることを願われている存在なんだって思う。
<山河の憂い>
一年間の気温上昇だって、年間に平均気温が2度も3度も上がったりするでしょう。それは千年に一度か二千年に一度かっていうくらいの変化らしいじゃない。それがわずか数十年の間にそうなってしまったわけだから。この冬も平均してみるとものすごい高温だったらしいじゃない。オーストラリアなんかもね、もう日本の本土くらいの面積が焼けたって言うし。
「環境」って言ってしまうと、何か都合のいいモノになってしまうじゃない? それを人間が都合よく使う。そして、・・・「持続的成長」とか「持続的発展」とかって、いやらしい言葉だなぁと思うけど。俺は好かん、全然。人間がコントロールするという意識が言葉の中に入ってると思うのよ。・・・単に「環境」と言ってるけど、実はそれ自体が生命なんだと思うのよね。・・・俺は地球そのものも生命体だと思う。
世界は文明社会と生命社会の対立の構造になっている。でも、単に人間社会の中の加害/被害と言う関係だけでは、もう説明がつかなくなっている。水俣の現状から見ても、今、誰と何を賭けて闘うのかがおそらく見えなくなっていると思うのよね。加害者といっても、チッソは会社の名前すら変わってしまって、相手が見えないし、特定できない。
温暖化の問題もそう。「どこが?」といっても発生源が一カ所じゃないから。大気汚染もそうだし、海のマイクロプラスチックのゴミの問題とかも。大きいのから小さいのまで、ゴミの種類もいっぱいあるけれども、もう特定できないでしょ? だから加害/被害という二極構造だけでは語れないと俺はずっと思ってるのよ。その両面を持ち合わせてしまったと。・・・安全地帯がなくなったわけ。相手が見えないということは、自分も問われざるをえないわけで。問われることのない安全地帯はすでにもうなくなっているんだ。
「責任」はすべて有償化しつくしたと思う。つまり、民事責任、損害賠償、補償金や和解金という形で、いろいろな社会事件−−裁判沙汰になるようなこの人の世の出来事は、ほとんどみな金で「カタがつく」と思うようになってしまった。一方、今起きている状態なんていうのは、金でカタがつかない事態なんですよ。行く末とか、「これからどうするか」ってことも、「どうあるべきか」っていうことも、人間という存在の根幹に降り立たなければ、見えてこないんじゃないかな。深くその存在自体を見つめなければ見えてこないような気がする。
われわれは山河の代理人でなければと思う。海、山、河、のね。そこに育まれて、育てられてきた恩義ある身の上としては、山河の憂いということをも代弁するかのように生きるという気持ち。・・・俺は、海も含めた“山河不知火”の信者・・・なんだと思う。存在基盤としてのこの“山河不知火”を抜きにしては、「私」という存在はあり得ない。そういう確かな基盤なので。海、山、河から愛されてきた、愛されているという実感が、俺の「信者」という言葉の中に入っている。
<一人ひとり、絶望の淵から>
言ってみれば、あのグローバル市場経済というのは「養殖社会」。そこで人間が養殖されてきたのに、その養殖場の網(ネット)が破れたわけよね。破れて、「さあ、これからどうしよう」、「どうすればいいのか」って右往左往している。自分で餌を獲ることもできないから、右往左往している(笑)。いや下手したら、仮に銭があってもものがない、食べるものがないということになりかねないわけですよ。トイレットペーパーもマスクも瞬く間になくなっちゃうっていうんだから、食べるものもなくなりかねない。だって外国から入ってこなくなったら、こんなに食料自給率の低い日本では・・・。
幻想共同体だったのよね。今まで日本という、国民国家という幻想の中に生きてきた。それが壊れ始めた。大きく壊れ始めた。人間が自分で壊しきれないから、他の力が働いて働いたんだろうなぁ、きっと。その国家に何ができるって、結局十万円の金をばらまくって程度の話じゃない?
今までのことが、一人ひとりに、「で、どうするんだ、これからあんたは?」っていう問いを投げ返してきてると思うんだよね。それを一人ひとりがやっぱり受けとらないと。・・・これからは、その「一人になる」っていうことが大事だ。問いかける側は、システム社会の中からの離脱を勧めているんだと思う。また養殖場の中に入れられるんじゃなくて、そこからだんだん離脱していくようにと。
俺は85年に狂って、狂って、ひとりという存在地点に立ち帰った。その作業はとても大変な苦労だったし、同時に勇気が必要だった。飛び越える、というか、飛び込むように、ひとりになっていった。グレタ・トゥンベリーさんもね、そんなに簡単に一人であの行動に踏み切ったわけじゃないと思うの。やっぱり彼女なりに相当悩み考え抜いたし、勇気が必要だったと思う。それは一人で世界を動かした。そこに可能性があると思うの。
あの動きを見てごらん。面じゃないよ。一人から一人へと伝播して、世界に。世代も、それから国境も軽く超えちゃって、一人ひとりが点でつながっている。それがね、俺は一つのいい実例だと思う。要するに、ひとりの行動が世界に影響を与えるという。昔のガンディーだってそうだったかもしれない。
俺は「バカの壁」を超えるためには一人でないとできないと思うの。グレタさんは、誰かを敵にして闘うというスタイルじゃなくて、自分を晒す、晒して訴えるっていう行動をとったでしょ。
絶望から拓けるのよ。深い絶望感から、その壁を越えていくという人の中で変化が起きる。もう依存すべきものも幻想もない。壊れきって、壊れきっていく中で、拓ける。
<思議と不思議>
今世の中にはびこっているのは、「命は自分の所有物だ」という思いこみ。しかし、もうどこまでいってもそれは所有できないんだ。命の本質とは何かということを考えて、前にこう言ったの。「ともどものいのちは、のちのいのち、のちのちのいのちへとかけられた願いの働きにある」
縁(えにし)の物語の中に私たちはいる。それは人工的に作られた制度の中じゃない「不思議」の世界。二つの世界があって、ひとつは考える世界、あるい「思議」する世界、そしてもうひとつが「不思議」の世界。その二つの絡み合いがね、さっきも言った二重構造みたいになってる。人間の意識でどうにかしようっていう「思議」する世界観に支配されちゃって、「不思議」の方を現代社会はほとんど無視してきたから、怖いもの知らずになってきてね。幽霊も信じないし、UFOも信じない(笑)。でも、そうじゃなくて、考えも及ばない「不思議」の世界がある。不思議な感覚の世界っていうか、縁(えにし)の世界というか。やっぱりその不思議な縁の世界に私たちはいるんです。
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