この本に、尊敬する方々と一緒に、寄稿させていただいた。ぼくの論考は「”緑の力”という希望」というタイトルで、2編からなっている。前編の冒頭には、そのタイトルにも使った”緑の力”という言葉について、こう書いた。
近年、世界のあちこちで、“ヴィリディタス”という言葉が囁かれている。これは12世紀ドイツの修道士ヒルデガルト・フォン・ビンゲンが作った言葉で、「緑の力」と訳される。長い間歴史の闇に埋没していたヒルデガルトとその風変わりな言葉とともに、ぼくたちが忘れかけていた何か根源的なことが世界に蘇ろうとしているのかもしれない。そう感じるのはぼくばかりではない。そして、そこにぼくは希望を見るのだ。
後編では、4月3日に亡くなったC.W. ニコルさんのことを書いた。その冒頭にはこうある。
4月3日、C.W. ニコルが亡くなった。ぼくにとっては、 “緑の力”という希望のために半生を捧げたヒーローだった。コロナ・パンデミックが続く今、彼の人生から一つのメッセージが浮かび上がる。この危機もまた文明が引き起こしてきた地球の、人間社会の、そして私たちの心の砂漠化の結果である以上、それを本当に乗り越えるためには、そこここに森を蘇らせるしかない。
以下、前・後編それぞれから、一部抜粋させていただく。
(前編より)
・・・「緑」は個々の植物を指すのではない。いや、植物だけを指すのですらないだろう。動物も植物と同様、夥しい物質から成り立つ複雑な生命体であり、土、大気、陽光、虫、微生物など、無数の要素からなる環境から切り離されて、それ自体として存在することはない。食とは本来、全体食(ホール・フード)、つまり、動植物からただ必要な栄養やエネルギーを摂取するだけではなく、その生命力を丸ごと受け取ることを意味する。
こう考えれば、「緑の力」の「緑」が、分割不能の丸ごと(ワンネス)としての森を、生態系を、さらには地球(ガイア)全体をさえ意味することが見えてくる。ヒルデガルトはこう言ったと伝えられている。「神の定めのうちにある天地万象は、互いに問いかけ、応え合う」。そして、「万物がそれぞれの役目を果たせば、世界は花開き輝くだろう」と。
今回のコロナ危機をその源までたどっていけば、人類による自然改造と、その結果としての生態系の衰弱というところに行き着く。要するに、科学技術や経済といった人類の力(フォース)が自然に対して強すぎるのだ。人類はこの強大な力に未来を託してきたのだが、皮肉なことに、今やその同じ力が未来を脅かしている。
ぼくたちは安全で安心な世界を構築しようと、あらゆる分野に科学技術と資金を投入してきた。それでも、この世界で最も洗練されたセキュリティ・システムが、健康な生命体の免疫システムであることにはいまだに変わりがない。共進化と呼ばれるプロセスを通じて、生命は、例えば、感染症に対する免疫を手に入れてきた。森に暮らす生きものたち個々の免疫システムは、森という生態系全体の免疫システムと足並みを揃えるようにして共進化してきたのだ。
森は生物多様性の代名詞だ。その森を破壊することが、温暖化や種の絶滅をはじめとした環
境問題を引き起こし、感染症を生み出し、同時に人間の免疫力を低下させているのだとすれば、ぼくたちがなすべきことは自ずと明らかだろう。森を守り、生態系の再生を助けること。その「緑の力(ヴィリディタス)」に人間の健康はかかっているのだから。
ヒルデガルトのこんな言葉も伝えられている。「人間はその姿かたちの中に、天地、生きとし生けるもの、そして宇宙の万象を湛えている」。そう、森がぼくたち一人ひとりの中に生きているのだ。
(後編より)
・・・そもそも森は、空気・水・土・生物多様性・種子・エネルギーといった要素を司る人間の生存の基盤なのだから。
免疫という言葉を、個々人の身体的機能に限定するのではなく、人間社会、生態系という“社会”の全体に関わる事柄と捉えよう。そうすれば、コロナ禍がぼくたちにあぶり出したのは、この地球社会の免疫不全という非常事態だったことがわかる。
イタリア人作家パオロ・ジョルダーノは『コロナの時代の僕ら』でこう言った。
「僕たちは今、地球規模の病気にかかっている最中であり、パンデミックが僕らの文明をレントゲンにかけているところだ」と。そこから浮かび上がりつつある数々の真実を記憶に留めたい、と彼は考える。コロナ前ならば、「そのあまりの素朴さに僕らも苦笑していた」であろう「壮大な問いの数々を今、あえてする」のだ、と。
自分が死んだ後も、アファンの森は生き続ける。「そう思って死んでゆきたい」とニコルは言った。彼は“緑の力”に賭けたのである。
「一本の木になりたい 暗闇の中に広く、深く根を張り しっかりと土を抱えて」(「森の祈り」)
彼の遺言とも言うべきこの詩にある通り、ニコルは今、正真正銘の木となって、森に生きているに違いない。
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