8月22日、尊敬するドキュメンタリー映画作家、想田和弘の書評記事を見かけ、「健康第一主義に傷ついたなら」というそのタイトルに惹かれた。ニューヨークに住む想田は3月以来のいわゆる「ロックダウン」を体験して、大いなる違和感を感じたという。「仕事も教育も娯楽も社会生活も犠牲にする政策が、かつてない規模で実行された」ことも彼にとって驚きだったが、さらに驚いたことは、「そうした措置が圧倒的多数の市民によって支持されたこと」だった。彼はこう書いている。
ロックダウンの大きすぎる副作用を懸念したりするだけで、「人の命が失われてもいいのか」などと近い友人からも非難された。
命を盾に取られると、思わず口をつぐんでしまう。僕も命は大切だと思うからである。(想田「コロナinアメリカ 健康第一主義に傷ついたなら」8月22日、朝日新聞)
しかし、と彼は言う。「新型コロナの死者が最も多い米国ですら、ウイルスによる被害よりも、対策による被害の方が深刻に見える」と。そしてアメリカの経済がいかに深刻な影響を被ったか、4〜6月期のGDPの32.9%減(年率換算、前期比)という落ち込みを指摘する。これは「統計を取り始めた1947年以降最大の落ち込み」なのだそうで、「この結果、どれだけ自殺者が増えるのだろう」と想田は憂えるのだ。
うーむ、これだけ聞くと、なんだか、トランプ共和党による民主党知事たちへの攻撃にも似ている感じがしてしまって、ぼくはかえって違和感を感じる。経済対コロナ対策という問題のたて方そのものをこそ問題にすべきであり、その根っこにある経済優先で、福祉、教育、健康などを犠牲にする新自由主義的な「自由」こそが問われるべきだと思うからだ。
しかし、想田は、自分が感じてきた違和感を基にして、現代社会にある「生きがいや楽しみよりも健康を優先させる」風潮へと、矛先を向ける。そして、このことについて考え進めるための本として、医師である大脇幸志郎の著書『「健康」から生活をまもる』を推奨する。
大脇によれば、健康第一主義は米国でも日本でも、あまりに社会に染み付き当然視されているので、「文化」とすら意識されていない。その意識化されぬ文化を解体していく本書は、コロナ禍をマスメディアとは別の角度から見るのに役立つ。(同上)
どうやら、想田の違和感は、マスメディアによるコロナ禍の扱い方や、それと同調し、率先して“自粛”したり、他人を“監視”したりする普通の市民に向けられているのだ、ということがわかる。それなら、ぼくも大いに違和感を感じてきた。
先に見たように、イリイチも「狂信的で、しかも細かいところまで規定された自己健康法と、洗練されたバイオ・テクノロジーへの素朴な熱狂とが結びついた奇妙な代物」として、今から3、40年前に、急速に広まり始めていた健康第一主義のことを憂慮していた。
では、想田の勧めに従って、大脇の『「健康」から生活をまもる』を読んでみよう。医師の書いた本といえば、病気とか、病気の治し方についての本を想像しがちだが、この本がよくあるそういう類の本でないことは、「序」を読むだけですぐわかる。
この本には、一見ウィルスとは関係ないが、ウィルスに連れられてやってくる真の問題に立ち向かう方法が書いてある。それは一言で言えば「パニックに免疫をつける」と言うことだ。
コロナ禍そのものより、それがやってきたのがどういう世界だったのか、に著者は関心を寄せている。そしてそれは一言で言えば、「健康至上主義」の窮屈な社会だ。彼は健康が大事ではない、と思っているわけではない。ただ、「健康第一」という考え方がおかしい、と感じている。そして、それは危険でもある、と。最近のインタビューでも彼はこう言っていた。(「『健康になれ』人生も社会も窮屈にさせる」朝日新聞、10月10日)
人はだれしも、健康より大事なものを持っています。・・・
健康に対する考え方は、人生そのときどきによって変わります。健康は大事だけど、常に一番ではないかもしれない。でも今の世の中は、『不健康でもいい』とは言いづらい空気があります。
確かに、「不健康でもいい」、と言いたい気分というのは、誰にでもある。それが、人にはもちろん、自分にさえ向けて言えない、言いにくい「空気」とはいったい何だろうか。不健康に対する不寛容な社会の空気と、それを醸し出す「健康教」をこそ、大脇は危惧しているのだ。多くの宗教がそうであるように、この健康教も大脇の言う「迷信」に基づいている。そしてその迷信はコロナが原因ではない。「新型コロナウィルスが登場するよりも前に迷信がはびこっていたからこそ、今の騒ぎがある」のだ。
「12の章のそれぞれで病気と健康にまつわる迷信を取り上げる」の言葉通り、筆者はこの世に溢れかえっている健康についての情報が医学的な装いをまといながら、実は、その大半が根拠のないものであることを、多くの例を挙げて論じていく。
この本は、健康情報の氾濫という大きな問題について考えさせてくれる。情報(供給)が増えるのは、しかし、誰もが健康には関心がある(需要)のだから当然だ、というほど、ことは単純ではない。実際には、情報が人々の健康への関心を刺激し、健康への異常な執着を作り出している。そしてその背景には、もちろん、イリイチの言った「医療化」のいっそうの進行と、現代世界きっての成長産業である健康関連ビジネスの存在がある。
みんなが健康に強い関心を持つことが当たり前だ、という感覚は、実は決して当たり前ではない。イリイチが言っていたように、それは当たり前どころか、人類史上かつてない、奇妙な現象なのだ。ぼくたちが知らず知らずのうち耳にし、口にもする「いのちを大切にする」「自分の身体をケアする」「健康的に生きる」といった言い方が、まるで時代や文化を超えた普遍的な原理であるかのように感じられ、ぼくたちの思考や行動を左右するマインドセットとなってようになったのは、実はごく最近のことなのだ。
健康についての「迷信」が氾濫するこの時代をどう生きてゆくか。大脇はこうアドバイスする。数々の情報を前に、「『正しい情報を見分けなければ』と思えてくる。「こういう思考こそが迷信だ。本物と偽物が目の前にあると思うと、本物を選びたくなる。実は『どちらもいらない』と言う選択肢もあるかもしれないのに」。(大脇『「健康」から生活をまもる』)
そして「健康は健康より大事なことのためにある」ということに思い当たる必要があると大脇は言う。そして、健康は大事なことのためにからだを壊すためにある、というイギリスの劇作家ジョージ・バーナード・ショーの言葉を紹介する。
健康より大事なことを、本当は誰もが持っている。何でもいい。おいしい食べものに酒、趣味、仕事、恋愛、あるいは家族。人は何か大事なもののために体を壊す。それは当たり前のことだ。(同上)
そう、それこそが、「当たり前」なのだ。最近の人々の健康への傾倒ぶりを茶化した、「健康のためなら死んでもいい」というジョークがあるが、かつて「生きるための健康」だったはずのものが、「健康のために生きる」状態になるという転倒は、もう決して他人事ではない。
欧米の言語でいう「well」や「bien」、日本語でいう「元気」や「達者」という言葉が今も思い出させてくれるのは、「医療化」以前に、世界各地の地域生態系やコミュニティのなかで長くスローな時間によって育まれた、イリイチのいう「バナキュラー」な「健康」概念の、想像しただけで目も回りそうな多様性と豊かさだ。
それを「健康=health」という一語へと集約し、あとは時代遅れの古めかしく、非科学的で野蛮な「迷信」として切り捨てるのが、現代の健康教であり、その健康教それ自体が今や世界に君臨しつつある巨大な「迷信」だというわけだ。そして、これがいかにも宗教らしいのは、切り捨てられたものをすべて不健康と断じて、差別し、迫害することだ。
大脇は、本の終盤で、ナチス・ドイツが健康教を奉じていたらしいことに触れ、ヒトラーの『我が闘争』からの一節を引用する。
「ただ健全であるものだけが、子供を産むべきで、自分が病身であり欠陥があるにもかかわらず子供をつくることはただ恥辱であり、むしろ子供を産むことを断念することが、最高の名誉であるということに留意しなければならない。しかし反対に、健全な国民が子供を生まないことは、非難されなければならない。その場合国家は、幾千年もの未来の保護者として考えられねばならず、この未来に対しては、個人の希望や我欲などは何でもないものと考え、犠牲にしなければならない。国家は係る認識を実行するために、最新の医学的手段を用いるべきである。(ヒトラー『わが闘争』、引用大脇)
当時の日本でも同じ健康教は猛威を振るっていた。
「国民各自が自己の身体は自分だけのものでなく国家のものである。・・・国家のためにこれを鍛錬し、これを強化し、もって健康報国の信念を保持することが肝要であります。」(初代厚生大臣木戸幸一による1938年の講演、引用大脇)
こうして、戦争と健康、全体主義と健康との密接な間柄が姿を現す。こうした一連の引用によって読者を深刻さへと導いた大脇は再び、彼の文章自体が醸し出す穏やかな雰囲気に戻って、次のように言うのを聞いて、読者は半ば気抜けし、半ばホッとするかもしれない。
「健康第一」という迷信を捨てるためには、「それは迷信だ」と正しく指摘するだけでは不十分だ。そうではなく、「唯一の宗教ではない」と言うべきだ。実際、私たちは時々「健康が第一だ」と思う一方で、別のときには「やっぱりおいしいものを食べたいな」と気まぐれに信念を曲げているのではなかったか。(大脇『「健康」から生活をまもる』)
健康が「○」で、不健康は「×」という二元論ではなく、そのあいだを曖昧に、いいかげんに、行ったり来たり、という柔らかさが大事だということだろう。(大脇さんて、若いのに、よくできた人だなあ!)
確かに、「いいかげん」は、「良い加減」なのだ。そういえば、今は知らないが、昔の医者は患者に「おかげんは?」と声をかけたものだ。大脇はさらに「呪術」という懐かしい言葉をも交えてこう語る。
一般化して言えば、私たちの課題は、「健康第一」という宗教の機能を尊重し、そこから派生してくる害をなるべく取り除くことだ。つまり、他人に同じ宗教を強制する人や、宗教を理由に誰かを踏み台にする人には、断固抵抗する。同時に、「健康になりたい」「こういうことをすると健康になれる」という信念は、否定せず、呪術としての妥当な地位を与える。呪術にみずから加担してもいいが、他のことを犠牲にする前に少し立ち止まって「本当にこれがしたかったことだろうか?」と自分の胸に聞いてみる。そのような態度が、自由に生きる現代人の態度だと思う。(同上)
この本の中で引用されている言葉の中で、ぼくのこころに一番響いたのは、2年前に亡くなった名優、樹木希林の言葉だ。「病というものをダメとして、健康であることをいいとするだけなら、こんなつまらない人生はないだろう」。これは死後出版されミリオンセラーとなった『一切なりゆき』という本からだという。大脇は、100万人の読者もどこかでこういう感じ方に共鳴していただろうし、こころのどこかで「健康第一」がおかしいと思っている人は多いはずだ、という希望を述べている。
もう一つ、ついでに大脇が引用している樹木の言葉。
「絶対多数の抽象的な人数の割り当てでもって、今これが良さそうだというのは嫌いなんですね。統計なんていうのは、私は全然信じてないの」
うーむ、これも深い。統計がぼくたちの日常をあからさまに支配するコロナの時代がやってくる前に死んでよかったと樹木はいうかもしれないが、もし生きていたら、彼女がこの世の中をどう見たか、知りたいところだ。
ついでのついでに、もう三言、樹木希林の名言集より。
「人は死ぬ」と実感できれば、しっかり生きられる。
モノがあるとモノにおいかけられます。
人生なんて自分の思い描いた通りにならなくて当たり前。
(続く)
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