三砂ちづるさんとの対談はいつもそうだが、10月29日のはオンラインでも楽しく、また刺激的だった。おかげで「健康ってなんだっけ?!」という問いは、ぼくの中で発酵が進みそうだ。三砂さんとの次の対話も視野に入れながら、ホームワークをもう少し続けてみよう。
前回の「健康ってなんだっけ」では、「健康」という概念に囚われることの危うさについて考えた。健康という言葉は、日本では“health”という英語の訳語として明治以降使われだしたといわれる。それ以前は「養生」という言葉が一般的だった。ではそのヘルスという言葉だが、これはもともと、「丸ごと」を意味するギリシャ語の“holos”から来ているといわれる。そこから派生した英語には他にも、“whole”(全体)、“holy”(神聖)、“healing”(癒し)などがある。これらの言葉をつながりあう一連の概念として捉えることが大切だと思う。
このうちのHEALという言葉、「ヒーリング」として日本語にも定着している。「癒し」という言葉は、今では日常会話にも頻繁に出てくる。「いやされる〜ウッ!」「いやされたい」みたいなことは若者でもよく言う。こういう表現は受動態だ。誰かが、何かが、私を癒し、その誰か、何かによって私は癒される、のだ。でも英語のHEALは、もともと自動詞で、「怪我が治る」、「病気が癒(いえ)る」というふうに、おのずから癒しは起こる。誰が、何が治したのか、癒したのか、はそこでは問われず、あえて言えば、病はみずからを治すのである(It heals itself)。
これは、國分功一郎さんの著書『中動態の世界』にならって言えば、能動態とも受動態とも違う、その「あいだ」の「中動態」にあたる。この中動態によって示される豊かな世界が、しかし、近代には、どんどんしぼんでいって、今では欧米の言語の文法では認知されなくなっている、と國分さんは論じた。これと似たことがデヴェロップ(DEVELOP)という言葉についても論じられてきた(例えばダグラス・スミスやグスタボ・エステバ)。封筒(ENVELOP)のように閉じたものが、「開く」という意味の自動詞だったものが、「開発する」という他動詞に転用されたのは、戦後のことだったというのだ。今をときめくSDGsのDも、もちろん、この他動詞のデヴェロップ、つまり、外側から”開かれる”開発なのである。この開発なるものが過去七、八十年の間に、一体どれだけの破壊をこの地球に、人々の暮らしに引き起こしてきたか、を思うと気が遠くなる。それに対して、内側から、おのずから、開くようにして起こる本来の自動詞的デヴェロップ(発展)を、唱え、それに取り組んできた少数者の歴史から学ぶことが、今、ますます重要になっているのだと思う。
ちょっと脇道に逸れたように見えるが、そうではない。病気に対してもまた、ぼくたちは「癒える」自動詞的、中動態的世界から、「癒す」他動詞的、能動・受動態的世界へと、重心を移し続けてきたのだ。コロナの時代に、まさにそのことが問われているのだと、ぼくには思える。「〜が〜を〜する」という世界観とは異なる、「おのずから」、そして「自然に(ナチュラリー)」といった言葉で表現される「自然治癒」の世界観は、これまで、古めかしく遅れたものとして貶められてきた。時には、迷信とか、呪術とか、などと呼ばれ、それに関わる者が「魔女」として攻撃されることさえあった。コロナ禍で、人々の意識が免疫や自然治癒力に向かったのはいいことだが、一方では相変わらず、免疫力をつけ、増大させる薬やワクチンに囚われている。「開発」がそうであったように、「医療」の進歩と賞賛されてきたものの裏にどれだけの損傷と損失があったかということを忘れてはいけない。
ぼくたちはここで一度、立ち止まるべきではないか。森にでも出かけて、深呼吸し、新鮮な初冬の空気のおいしさを味わい、自分のからだが喜んでいるのを、感じる。そして、「おのずから」の世界の偉大さに心打たれる。コロナの恐ろしさに怯えるより、自分のからだやそこに棲まう何百兆という小さな命たちを含む、この自然という生ける全体(HOLOS)に感嘆する。そうすると、おのずから、自然に、癒しは起こる。ぼくはこういう迷信を信じているのである。(そして実際、近くの舞岡の森に通い続けている)
さて、話を本筋に戻して、HEALTHに戻ろう。HEALTHがHOLOS(全体)という言葉から派生しているという話だ。今でも、健康という日本語も、英語のヘルスも、身体の全体について使われる言葉だ。その一部分だけをとりあげて、身体のこの部分は健康で、この部分は不健康という言い方はしない。 またヘルスという概念には、身体だけでなく気分や性格など心の領域も含まれていて、ここでも人の全体的なあり方を表している。
「ホリスティック・ヘルス」とか、「ホリスティック・メディスン」という重要な概念があるが、改めて考えてみると、もともと全体を意味するヘルスという言葉に、わざわざホリスティック(全体的、包括的)という言葉を修飾語として使うのは奇妙なことだ。それはきっと、ヘルス=健康という言葉が、ホリスティックでないものへと矮小化され、歪曲されてきたことに対する反動だろう。前回見たように、よき人生(ウェル・ビーイング)のための健康であったはずのものが、よき健康のための人生へといつのまにか差し替えられてきたのだ。
もう一度、健康にホリスティックな意味を取り戻すためにも、コロナ・パンデミックの初期から、いち早く世界に向けて発信されてきたヴァンダナ・シヴァの「ワン・ヘルス(一つの健康」というメッセージをしっかり受け止めておくことが必要だ。簡単にいえば、ぼくたち個々人の健康は、他の無数の生き物たちからなる生態系の健康から、そして、空気や水や土などからなる自然環境の健全さから、切り離すことはできない、ということだ。本ブログでも、ヴァンダナが3月に発信した記事(「一つの地球、一つの健康 コロナからのメッセージ:狂った食のシステムに終止符を!」)の抄訳を7月1日に載せておいた。今にして思えば、それは、その後の世界がコロナ禍に翻弄されて行くのを見越した、人々への警告だった。ここで、その彼女の言葉を改めて振り返っておきたい。
まず、ヴァンダナはこう切り出す。
「私たちはワン・プラネット(ひとつの地球)に暮らす地球家族だ。その多様性と互いにつながり合う関係性こそが、私たちの健康を保障する。地球の健康と私たち人間の健康とは切り離すことができない」
健康を、バラバラに切り離された個々の身体の状態とするこれまでの通念に対して、関係性こそが健康を支えている、というのだ。そして、限りなく多様な要素からなるこの地球全体の健康(ウェル・ビーイング)が、私たち個々人の健康を支えているのだとヴァンダナは言う。この視点からみると、コロナ・ウィルスによる健康危機という「非常事態」はどう見えるだろう? 彼女によれば、それは、「生物種の絶滅と消滅、気候変動という非常事態とつながっている」、つまり、コロナ危機に先立って人類を深刻な危機に立たせてきた環境破壊と別々のものとしてではなく、一続きのものとして捉えなければならない。
「これらすべての非常事態は同じ根っこを持っている。機械論的、軍事主義的、人間中心主義的な世界観という根っこだ。その世界観では、人間が人間以外の存在とは切り離された、より優れた存在であり、好きなように、人間以外の存在を所有したり、操作したり、支配したりできる、と考えられている。同じ考えは、無限の経済成長とか、無限欲求とかといった幻想の上に作られた経済モデルにも根を張っている」
その根っこをそのままにしておいて、コロナ禍をなんとか押さえ込んだように思っても、もちろん本当の意味で、危機を乗り越えたことにはならない。
「新しい病がつくりだされつつある。それは、グローバル化し、工業化され、非効率的な食と農のモデルが、他の生物の尊厳と健康を無視して、その生態生活圏を侵略したり、動植物を生命操作したりしているせいだ。地球とそこに生きる生物を自分たちの利益のために搾取すべき単なる“資源”とみなす幻想が、世界を病気によって“つなぐ”ことになってしまったのだ」
経済こそが生態系の健康を損ね、新しい感染症と慢性疾患を続々と作り出してきた。とすれば、「経済回復も感染症対策も」とか、「もっと経済成長を、同時にもっと健康増進を」というのは虫がいい話だ。
「森林が破壊され、農地は有毒で栄養のない空っぽな“作物”を作り出す工業的な大規模モノカルチャーとなり、私たちの食べ物は、さらに工場での加工、化学合成、遺伝子操作などによって劣悪になる。こうした複合的な変化が、私たちを病気へと近づけてきたのだ。これは“つながり違い”というものだ。元来、自分の内なる多様性と、外なる多様性とにつながることで私たちの健康は保障されてきたはずなのに、グローバル化による食と農と環境の均質化の方へと私たちはつながれ、健康を脅かされている」
とすれば、コロナ禍という健康危機は、私たちが脱グローバル化し、ローカルの方向へと転換することをぼくたちに促している、といえるだろう。ヴァンダナは、このウィルスによってグローバル経済が一時中断されたことをきっかけに、「ローカリゼーションという転換を成し遂げよう」と呼びかける。真の健康は、グローバル化の方向にではなく、ローカル化の方向にこそ、見出されるだろう、と。
「ローカル化された、生物多様性に富んだ農業と食のシステムこそ、私たちの健康を支え、同時に自然環境への負荷をも軽減してくれる。ローカリゼーションは多様な種が、多様な文化が、多様な地域経済が栄えていくためのスペースを創り出す」
これまでグローバル経済を支えてきたのは、森林や湿地帯の破壊、環境の汚染、農薬や消毒剤や抗生物質などによる均質性の増大であった。それが、自然生態系の健康を損ない、人類の健康危機を生み出してきた。逆に、ローカリゼーションは多様性へと、地域生態系の健康=人間の健康へと向かう、とヴァンダナは考えている。
「森林における多様性はもちろん、農地の多様性、私たちの食物の多様性、そして腸における多様性が、地球を、人類を、生物を、より健康にしてくれる。そして病気に対する、ウィルスや病原菌に対するよりしなやかな強さを育んでくれるのだ」
この記事の終わりに、ヴァンダナは改めて、今回のコロナという“健康危機”を、人類が健康の本当の意味に目覚めるための絶好の機会として捉えなければならない、と訴える。
「それは、分離・独占・貪欲に彩られた機械的で工業的な時代から、「私たちはワン・アース・ファミリー(一つの地球家族)」という意識に支えられた地球文明の時代へのパラダイムシフトのチャンスである。私たちの健康は、何よりも地球生態系の相互連関性、多様性、自己再生力、そして調和に根ざしている、“ワン・ヘルス”なのだ」
さて、ここでもう一度、80年代にイバン・イリイチが言っていたことを思い出してみよう。彼によると、70年代から80年代にかけて、新しい世代を中心に、自分の身体を
「私のシステム」と呼ぶ人々が増えていたという。つまり、「私」を一種のシステムと考え、「自らを対象化」し、自らを自分の身体の「プロデューサー」と考える人々が現れている。そして、これと並行して、「健康」もまた操作可能なものとなったのだ、と。(イリイチ『生きる思想』)
このプロデュースされるシステムとしての「私の身体」という考え方は、ヴァンダナが危機的な状況として指摘する、分離され、孤立した「身体」観と響き合う。かつてのローカルで伝統的な健康観は、イリイチが大きな影響を受けたというカール・ポランニーの言い方を借りれば、自然や文化の中に「埋め込まれていた(embedded)」。近代的な医学の進歩ととともに、身体は精神から分離され、健康は文化的な文脈からも、生態系とのつながりからも切り離されてきた。それが、イリイチのいう、「病気をつくり出しているのは、むしろ、健康な身体の追求」という逆説的な状況なのだ。
ぼくたちの健康をもう一度、文化や生態系の文脈の中に「埋め込み」直すこと。それがヴァンダナのいう、ローカリゼーションであり、ホリスティックな健康や医療への筋道なのだろう。
上の引用の中で、ヴァンダナは「腸における多様性」と人間の健康の関連にも触れていた。次回は、近年世界中で話題になった人体内の微生物の集合体、マイクロバイオームに注目しながら、コロナの時代の健康について考えを進めたい。
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