グロッセ世津子さんのホームページを見ると、トップの絵に雪が降っている。その雪があの岩手県東和町の家に、庭に、降っている様を想像する。でも世津子さんが、その家にも、庭にも、もういないということが想像できない。
どこであるにせよ、世津子さんはちゃんと居て、いつもの微笑みを浮かべている。そしてあの微笑みが人々のうちに、不思議な力を励ましをもたらす。すると彼らのうちに、”癒し”が起こる。それはなくならない。今も、これからも。
12月2日、世津子さんが逝去された。
「親愛なる皆様 突然のお知らせですが、12月2日に最愛の母、グロッセ世津子が永眠いたしました。
数年前より病を患っておりましたが、私たち家族にとっても突然のことで、まだ気持ちが追いついておりません。
本来ならきちんと葬儀を行い、これまでお世話になりました方々に感謝の気持ちをお伝えできる場を持ちたいと考えておりましたが、昨今の状況下を鑑み、葬儀は自宅にて家族葬を行うことになりました。 尚、下記の日程にて、母にお別れをしていただけるよう、自宅を解放する予定です。形式に拘らず普段通りにお越しください。
グロッセ世津子へのお別れ 12月4日(金)10時〜18時 12月5日(土)10時〜18時・・・」
(世津子さんのフェイスブック・ページ)
十年ほど前、ぼくはカタログハウス大阪店で、「カタログハウスの学校」連続セミナー「地球を考える」の講師をやっていた。講師といっても、毎回、ぼくが好きな人たちをお呼びして話を伺うという、ぼくにとっては楽しい行事のようなものだった。
「地球を考える」シリーズの第九回には、グロッセ世津子さんとリュック・グロッセさんにきていただいて、リュックさんには主に庭園を見学しながらの講義、世津子さんには主に室内での対談をお願いした。その対談は題して「植物とのコミュニケーション」。その時の記録から抜粋、少し加筆したものをここに載せたい。写真は、そのセミナーの前後に、ぼくが岩手のお家を訪ねた時に撮ったものだ。まずは、セミナーで使われた、世津子さんのプロフィールから。
グロッセ世津子: 園芸療法実践家、北海道生まれ。ペイザジストである夫、リュック・グロッセ氏のパートナーを務めながら、日本における園芸療法の普及を目指し、全国各地での講演・ワークショップ・執筆活動を行う一方、岩手県、埼玉県、長野県、東京で園芸療法の実践活動を行ってきた。著書に『園芸療法新装版』(日本地域社会研究所)など。
(有)みどりのゆび代表取締役 エコール・グロッセ主宰。
奇跡のようなことが日常的に起こる園芸療法
辻 グロッセ世津子さんは園芸療法の実践家ですが、そもそも「園芸療法」とはどういうものなのでしょう?
世津子 植物を育てるという行為を通して、心や体の機能を回復させようというものです。第二次世界大戦後にアメリカ、イギリスで生まれた療法で、医療の世界では機能訓練のための作業療法のなかの、園芸に特化させた一種目ということになると思います。
辻 園芸療法の方法、効果について、具体的に伺いたいのですが。
世津子 たとえば、認知症で普段は何もしゃべらないから、花を見せてもわからないのではないかとか、麻痺などの障害があるから花に触ることができないのではないかと思っている方が、たった1本の花を差し出しただけで、思わず体が動くという奇跡のようなことが、本当によくあります。花自体や花の香りなどに、無意識に体が反応するんですね。あるいは、熱中することで「できない」という意識のタガが外れるのかもしれません。
ある施設で、普段は腕が震えて食事も介助を要するお年寄りの方がいました。ここではプランターでお米を作っていたのですが、「今日は稲刈りの日ですからやりましょう」というと、「こんな体になって、もうできない」とおっしゃる。「じゃあ、私がやりますから見ていてください」とやり始めたら、「そんな手つきじゃ、日が暮れる」というんです(笑)。「じゃあ、やってみてくださいよ」と鎌を渡したら、ちゃんと握って、スパッと刈るんですよ。震えも出ない。体が覚えているんですね。
じつは園芸療法には、体への好影響と共に、もう一つの素晴らしい効用があるんです。介護を受けている方は、食事や入浴、トイレなどで、いつも「してもらう」という受身の立場で生きている。ところが、先ほどのようなことがあると、昔の知恵を発揮できる。つまり、私たちはその方たちに教えてもらう立場に立てるわけです。すると、70年、80年、90年の生活の歴史を持った人間として、自分の存在意義を再発見できるんです。
こんなこともありました。ある施設でアレンジした花を飾っていたのですが、そこをウロウロしている方がいる。私たちはつい先入観で「徘徊しているのでは?」と疑ってしまったのですが、その方が、ふとスタッフに何かささやいた。
「水仙の水面に映る姿は絵のごとくおもう」と歌を詠んだんです。驚いて急いで書き取ったんですが、私が「おもう」を「想う」と書いたら、「愁う」だという。感受性は失われていなかったんです。ただ、それを出す機会がなかったのですね。植物がその機会を提供したわけです。
私は、園芸療法は日本にすごく合っていると思います。なぜかというと、日本は植物に関する文化の奥行きが、ものすごく広いからです。四季それぞれの自然を歌った歌がたくさんあるように、植物から派生する、心の琴線に触れる素材が豊富なんです。
「植物的時間」が心の変化を引き出す
辻 今は「早い者勝ち」の世の中で、人々がどんどん生きづらくなっている。しかし、他の生きものに寄り添ったり、正面から向き合ったりするときに、そこに流れる時間を受け入れざるを得なくなります。園芸療法の本質は、そこにあるかもしれないですね。それが、私たちに根本的なことを思い出させてくれるんじゃないでしょうか。
世津子 私が一番大切にしているのは「植物的時間」です。たとえば、13歳のときに交通事故による脳挫傷で体が不自由になり、医師に「これ以上はよくなりません」といわれて退院した20歳の青年がいました。出口の見えない長い道のりに、家族も医療従事者も絶望している。彼は、その絶望を一身に背負ってきているわけです。
でも、植物は何も求めませんし、私たちがどういう状況にあるのかにも頓着しないわけです。そんな植物と触れ合っていると、もう十分頑張ったから、いることだけでオーケーだよと植物に言ってもらえているように感じるようになる。すると、ある日、自分から何かが動き始める。その変化を待つわけです。近代医療では、そういう時間のかけ方、手間のかけ方はできないと思います。
植物は枯れて命の循環を教える
辻 植物の種を蒔いて、それが芽を出し、やがて木になる。そういうふうに命が展開していくことが、人間の本質的な部分を揺さぶるというのはわかる。でも一方で、植物も枯れていき、最後は死んでしまいます。そういう側面にはなかなか共感できない、さらにそれをネガティブなものとしてしか見ないという人も多いと思いますが?
世津子 そこが、やはり植物のおかげだと思う部分です。植物は枯れるけれど、それですべてが終わるわけではありません。枯葉や朽ちた木は肥やしとなり、土となり、次の命を育みます。でも、言葉で「死んでも命は続くのよ」と言っても虚しいことがありますよね。言葉ですごく傷ついた経験のある人であれば、なおさら言葉には敏感です。それが、自分で植物を育てることで、命の循環ということが言葉にしなくても伝わるのです。
たとえば、米国のホスピスで、こんな話がありました。やはり死の話はタブーなので、家族も医師も看護師も何を話したらいいのか困って、どうしても病室から足が遠ざかってしまう。そこで病室でクロッカスの球根を育て始めた。花のことを話題にすればよくなったので、みんな安心したそうです。そんなある日、その患者さんが「私が死んでも、この花が咲いたら、みんな私のことを思い出してくれるかしら」と自分から言ったというのです。それは、死の受容といってもいいかもしれません。
実は私は、園芸療法の最大の効用は、回復させること以上に、今、ここで、そのままの自分でも受け取れる「ギフト」があることに気づくことだと思っています。自分に病気があっても、障がいがあっても、花は命の営みを続け、咲き、果実をもたらしてくれます。そして、その喜びを分かち合うことができる。そのことが、本当の人間らしさ、人間の中にある神聖なるものを引き出してくれるような気がするのです。
辻 植物が枯れても命は循環するというお話は、とても重要ですね。現代人の多くは、植物にしても動物にしても、その循環のなかから自分たちに必要な部分だけをつまみ出して、自分本位につき合っているようです。たとえば、花の咲く時期だけ花壇に植えて、季節が変われば違うものに取り替える。あるいは、葉が落ちた樹木には目もくれない。落ち葉はゴミとしてプラスチックバッグに詰め込む、というようなことをしています。
でも考えてみると、これは他の生きものに対してだけでなく、同じようなことを人間たちに対しても、もしかしたら自分自身の人生に対してもやっているんじゃないか。ぼくらは、いつの間にか病、老い、死といった人生のプロセスそのものに背を向けてきたのではないか。お話をうかがって、園芸療法はそこにもう一度、向き直るきっかけを与えてくれることがわかってきました。
ガーデニングブームの裏に見え隠れする所有への欲求
辻 前の話とも少し関連するのですが、ぼくは日本のガーデニングに関して常々引っかかっている点があるんです。ひとつは農薬や化学肥料を使うこと。もうひとつは自分の家の庭に、自分の花を育てるという、植物を「所有」するという感覚がどうしても心に引っかかる。
思想家エーリッヒ・フロムに『生きるということ』(紀伊国屋書店・1977年)という著書があるのですが、英題は『To Have or to Be』、直訳すれば『持つこととあること』です。このなかで、東洋的な考え方と、西洋的な考え方を比較しています。
たとえば、芭蕉に「よく見れば なずな花咲く 垣根かな」という句がある。一方、イギリスの詩人アルフレッド・テニスンの詩に
「ひび割れた壁に咲く花よ/私はお前を割れ目から摘み取る/私はお前をこのように、根ごと手に取る、小さな花よ/もしも私に理解できたらお前が何であるのか、根ばかりでなく、お前のすべてを/その時私は神が何か、人間が何かを知るだろう」
という詩がある。芭蕉は、見ているということだけで満ち足りていて、それを一七文字に込めている。しかし、テニスンの美意識には「持つこと」が含まれています。そう、フロムは書いている。
フロムは非西欧的な、野を歩きながら、道端に咲いている花を見て楽しむという態度を評価しているのに、今の日本のガーデニングには逆に、ヨーロッパに比べても「私のもの」という執着のようなものが強いと思うんですが、そのあたりはいかがですか?
世津子 「ガーデニング」は、直訳すると「庭仕事」なんです。ヨーロッパでは日常の生活行為のひとつとして、庭に自分たちで食べる野菜や果物を作り、飾る花を植えている。それが日本の場合は、商品化されて、美しい、非日常の世界のように語られている。ヨーロッパでは、人間も自然の一部であり、植物なしには暮らしていけないという考え方が根底にあるような気がします。ただ、身近なところに自然とのつながりをもっていたいという気持ちが病的に高じて、自分本位になったら、それは自然破壊になるかもしれません。そこにモラルという「たが」をはめられるかどうかということだと思います。
辻 フロムの言葉を借りれば、「もつ」ガーデニングと、「ある」ガーデニングがあると思います。リュックさんとお話ししていて、「自分は外側にいて対象に働きかけるガーデニングではなく、他の命のなかに自分がいるというのがガーデニングの基本ではないか」とおっしゃっていたのが非常に印象的だったので。
現在の日本でブームになっているガーデニングのあり方というのは、ぼくたちが、今、人類の未来を危うくするような環境破壊をつくり出し、地球の生態系をズタズタにするようなところまで来てしまったことを象徴するような部分があるような気がするのです。
他方で、同じガーデニングのなかに、園芸療法のように、ぼくたちが同じ生きものとして、この地球という生きもののコミュニティのなかの一員なんだということを、もう一度、ぼくたちに思い出させてくれるようなものがある。それが、ぼくたち自身のなかにもともとある力を再発見することにつながるのではないか、と。
生物多様性は人間の中にだってある
辻 今、盛んに叫ばれている地球温暖化と同じように、あるいはそれ以上に、生物多様性の急激な減少は、来るべき世代の生存を脅かすような大きな問題だと思っています。実は、そういう現状を引き起こしている根本的な原因は、ぼくたちが他の生きものとのつながりを見失ってしまったことにあると思うのですが。
世津子 花は好きだけど虫は嫌いという方もいますが、花は虫やミミズ、土壌の微生物なしでは生きられない。私は、いちばん身近な自然は私たちの体だということを、もう一度、思い出すといいと思うのです。私たちの体は、多様性の固まりです。
たとえば、腸内には善玉菌と呼ばれる微生物が、皮膚にも1平方センチメートル当たり10万個もの微生物がいて、病原菌から守ってくれている。自然界の生物多様性が失われることは、私たちの体内の生物多様性にも直結しているんです。それが人間の免疫機能を低下させて、アトピーやアレルギーが増えている。
人間そのものだって、多様性があるのが当たり前です。外国人と文化が違うのはもちろんですが、同じ日本人も多様なんです。「弱者」といわれる方とか、問題行動を起こすといわれる方に違和感をもつことがあると思います。結局、自分にとって違和感のあるものを、どこまで引き受けられるかがポイントになってきます。植物と触れ合うことで、生物多様性に気づき、ひいては人間の多様性にも気づいてもらえたらいいと思います。
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