『ぼくはテクノロジーを使わずに生きることにした』という、すばらしい本を読んだ。マーク・ボイルの本はもうこれで4冊読んだことになる。どれも、自伝的な要素の濃い本なので、彼のことはもうよく知っているような気になる。4冊の中で、1冊を選べと言われたら、ぼくはこれを選ぶだろう。この一冊で、ぼくはこの男が大好きになった。
本書は、マークが「より簡素で、より自立共生的(コンヴィヴィアル)な道具を使って暮らしていく決断」をして、故郷アイルランドの田舎の村に引っ越し、自給自足に近い暮らしに挑む一年の記録だ。一つの重要なテーマは、人間と自然界の「あいだ」を取り戻すこと。少し引用させてもらおう。
(お金を使わずに暮らした3年間) から一〇年が経ち、シンプルであることの複雑さを真摯に探求したいという思いはますますつのり、逆に、正しくあろうという気は薄れた。ぼくの生き方の中核に強烈な願望が存在し、周囲の風景の一部と化す感覚を味わいたがっている。(P17)
もう一度、人生の脈動をこの手で感じたいのだ。・・・自然の猛威を感じとりたい。よけいなものをはぎ取った後に残る本質を味わい尽くしたい。本物の親密さを、友情、コミュニティーを知りたい。真実を探求して、そんなものが実際に存在するのかどうか確かめてみたい。たとえ存在しなかったとしても、少なくともぼくにとっての真実に近いものを見つけたい。寒さや飢えや恐れを感じたい。単に生命を維持するだけでなく、生きている実感を持って生きたい。(P27)
そして、マークはこう問うのだ。
過剰な文明化のレイヤーを玉ねぎの皮のようにはいでいくと、大抵の場合、知らなかった自分自身を、それも知らなければよかったと思う側面を、発見する結果となる。狂気の俗世間を遠く離れて、孤立感を味わうことになるのか、それとも、心の平安を享受することになるのか。インターネットにラジオにテレビ、外界と簡単につながる手立てを何ひとつ持たずに、たちまち退屈してしまうだろうか。身近な人たちとの関係に、またぼくの健康に、それはどのような影響を及ぼすだろうか。(P39)
そして、彼はこう夢想する。
一生のうちで一日だけでいいから、物事をありのままに見てみたい。そんな、曰く言い難い衝動に駆られるのだ。数字や、人間の作った概念や、擬人化表現など、人工的な何者にも囚われることなく、ただ、あるがままの姿を。(P51)
本の冒頭には、彼が敬愛するエドワード・アビーの、『砂の楽園』(1968年)からの文章が掲げられている。
「ぼくがここへきたのは、そういう人間の文化装置がつくりだす喧騒、汚濁、混乱をしばし回避したいためだけでなく、できれば自然界の根本的な、むきだしの存在の骨、ぼくらを養ってくれる基礎となる岩と、じかに向きあいたいためだったのだ。一本のセイヨウビャクシンの木、石英のひとかけら、一羽の禿鷹、一ぴきの蜘蛛をながめ、それらの本質をしらべ、人間がそれらに付随させたあらゆる属性をはぎとって、それら自体を見つめたいのだ。カント的定義はもとより、科学的説明の範疇すらはぎとったところで、それらとあいまみえたいのである。ぼくのなかの人間としての要素をどれだけ危険にさらしても、神かメデューサか、とにかくじかに向きあいたいのだ。」(P7)
そして、もう一つ、彼の暮らしを支えるバイブルは、ヘンリー・D・ソローの『ウォールデン』にある次の有名な言葉だ。
「ぼくが森へ行ったのは、慎重に生きたかったからだ。生活の本質的な事実だけに向きあって、生活が教えてくれることを学びとれないかどうかを突きとめたかったからだ。それにいよいよ死ぬときになって、自分が結局生きてはいなかったなどと思い知らされるのも御免だった。」(P123)
冬のある日、マークは泉の水を汲みながら、自然界との一体性を感得する。
あれこれ話してるうちに、大瓶があふれていた。水をじかに飲もうとかがむ。口の中に勢いよく流れ込んだ水があごひげを濡らすとき(ここ一〇週間ほどヒゲを剃っていない)、どこまでが泉で、どこからがぼくなのか、一瞬わからなくなる。口いっぱいに含んだ水は、南下し、ゆっくり蛇行して、血管や皮膚や膀胱へと流れていく。いまのぼくの暮らしでは、わが身の健康と泉の健康とが相互に依存しあっている。隣人が農地に殺虫剤や除草剤を散布し、薬剤が湧き水に混入すれば、ぼくは中毒を起こすわけだから、わが運命と、虫や魚や鳥や哺乳類など野生動物の運命とは、分かちがたく結びついている。(P93)
また、ある夏のある日、堆肥場で作業中の彼はこう大地との一体性を知る。
ぼくには堆肥の中に、物語が、思い出が、歴史が見える。そしてまた、場所とその住人のあいだの壮大な結合も。実際にやっているのは土づくりにほかならず、一日のはじめかたとしても悪くないではないか。作業しながらたびたび気づかされるのは、ぼくらを養ってくれる大地とぼくらとのあいだの境目が、人間の思いたがるほど明瞭ではない、という事実だ。(P191)
彼を、その葛藤を、その喜びや悲しみを、その成功と失敗を、ぼくは心の中で抱擁する。
これは自分の経験がいかに特異なもので、ある特殊な能力によって可能になったものかを語る、ありがちな冒険譚ではない。マーク・ボイルの泥まみれの葛藤は、しかし、いつも喜びと笑いと限りない優しさに彩られている。
現代社会に、微かにでも違和感を覚えながら、自分にはそれをどうすることもできないとあきらめかけている人にも、ぜひ読んでみてほしい。本書の英語版のタイトルは、The Way Home:Tales from a Life without Technology である。ぼくにも、人類全体が今、「帰り道」を探しているように思える。
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